特別インタビュー

錦戸眞幸(財団法人日本相撲協会 錦戸部屋 元関脇 水戸泉)
2017/1/16

錦戸眞幸南間:本日は宜しくお願い致します。
平成21年6月に福祉団体として活動を始めたオフィスヴィムは、平成25年12月から婚活パーティー事業ヴィムブライド白金をスタートしました。
そして平成27年8月からシニア世代の皆さまを対象にした婚活パーティー事業ヴィムブライドシニア白金を運営しています。
また、大きな特色としてシングルマザー支援に注力していることもあり、今日は現役時代に水戸泉としてご活躍され、現在は錦戸部屋を率いる錦戸親方に、シングルマザー家庭で育った視点でのお話をインタビューさせて頂きます。


「子供心に感じた世間の視線」

南間:私たちヴィムブライドはシングルマザー支援を掲げており、婚活支援のみでなくシングルマザーの皆さんが気軽に情報交換や悩みを共有しあえる茶話会なども企画しています。
また、シングルマザーを取り巻く制度や就労環境についての勉強会も開催しています。
その勉強会でつい先日、シングルマザーに育てられた30代の男性がこんなことを言っていました。
「私は母と、母が私をシングルマザーとして育てたことをどう思っているのか?について会話をしたことがありません。でもいずれそんな会話をしてみたい」
女手ひとつでお子さんを育てた母親とお子さんには強い絆があると思いますが、でもこの男性のように言葉に出して会話をしてはいなかったりもするようです。
錦戸親方はシングルマザー家庭で育たれましたが、まず子どもの頃にそのことをどのように受け止められていたかというところからお伺いさせて下さい。
錦戸:我々が育った頃はシングルマザーという言葉ではなく、片親と言われていました。
その片親であることを、昔の人たちはなにか凄く悪いことのように言っていました。
いや、悪いという表現は適切でないかも知れません。
でも近所というか世間というか、なにかと有らぬことを言われました。
近所でなにか悪戯があれば、あそこの子は片親だからあそこの子がやったんじゃないかと疑われたりしました。
そういうことは大人になった今でも鮮明に覚えています。
他にもなにかと片親だから良くないとか、父親がいないからろくなところに就職できないとよく言われました。
そういう世間の声や雰囲気は子どもながらに感じていました。
南間:今の時代からすると驚きますね。
錦戸:そういうことがありましたので、母は私と弟の昭二を「世間に負けない強い子に育てたい」という想いがあったと思います。
私も昭二も子どもでしたけど、そんな母の想いは感じていました。
南間:親方のお父様は早くにお亡くなりになられたのですか?
錦戸:私の父は43才の時に膵臓癌で他界しました。
その時、私はまだ5才だったので微かにしか父の記憶がありません。
運送業を営んでいて身体が大きく、田舎の相撲大会では活躍していたそうです。
南間:そうなんですか。そうすると親方の身体が大きいのはお父様ゆずりなのかも知れないですね。


「大相撲の世界へ」

錦戸:父が他界した後、母は生活のために働きに出たのですが、それは朝出かけると暗くなるまでずっと帰ってこない生活でした。
我が家は茨城鉄道の駅のすぐ裏手にあった二間だけのちっぽけな家で、私は夜に電車が着く音を聴く度に、その電車に母が乗っているのではないか、今に母の足音が聴こえるのではないかと過ごしていたものです。
南間:そうするとお母様が返ってきた時は本当に嬉しかったでしょう。
錦戸:そうですね。きっと母は仕事で疲れ果てていたはずなのですが、いつもそんな素振りは全く見せずに夕食の支度に取り掛かりました。
それが終われば洗濯。そして掃除。その後は内職でやっていた段ボールの組み立てです。
私と弟の昭二は少しでも母と一緒にいたいし、母を助けたいので手伝いました。
でも子どもだし上手く組み立てられなくて、かえって邪魔をする恰好になってしまう。
まだほんの小さな子供だったものの、そういう時は私も昭二も自分の不甲斐なさを感じました。
南間:だけどお母様を手伝いたいという気持ち自体は伝わっていたのではないでしょうか。
錦戸:そうかも知れないですね。だけど母はもともと体が丈夫な方ではありませんでした。
それなのに朝からずっと外で働いた上に内職をして、私と昭二の面倒も見ていた。
今振り返っても相当な無理を重ねていたと思います。
ですから私も昭二も大きくなるにつれて、せめて家事くらいはやって母を手伝いたい。
そうして母を助けたいという思いから、当然のようにお米をといで食器を洗い掃除をするようになりました。 
とにかく朝から晩まで働いている母の背中を見て育ったものですから、子どもの頃からずっと「どうにかして母に楽をさせたい」という気持ちを持っていました。
南間:母親想いの素敵なご兄弟ですね。
錦戸:ただ小学生も高学年になり中学生になってくると、母には迷惑をかけたくないという気持ちは持っているのですけど、どうしても言うことを聞かなくて怒られたりしました。
でもそういう時は怒られながらも「お母さんは父親の役目もしているんだな」と感じました。
南間:思春期の男の子は言うことを聞かなかったりしますよね。
錦戸:一度母に「なんでうちには父親がいないんだ」と言ったことがありました。
その時母は凄く寂しそうな顔をしたものですから、それには二度と触れてはけないんだろうなあというのは子供心に感じました。
まあそういうような少年時代でしたが、やはり母に楽をさせたいという想いを一貫して持っていました。
そうして15才で中学を卒業すると同時に高砂部屋に入門しました。


「初めて感じた父親のような存在」

南間:15才で大相撲という世界に飛び込まれてどうでしたか。
錦戸:それはもちろん厳しい世界でした。
やっぱり競争社会ですよね。ですから常に負けたくないという気持ちを奮い立たせていました。
母に楽をさせたいという気持ちと、そして子どもの頃からの世間の視線に対する負けじ魂ですよね。
片親だからどうこうと小さい頃から言われていましたし、他の家庭よりも裕福ではありませんでしたから。
だから「成功すればいいな」ではなくて「絶対に成功しなくてはならない」という気持ち。
「結果が出ればいいな」ではなくて「絶対に結果を出さなければならない」という気持ち。
私はその時の周りの環境に恵まれてそういう気持ちを持てました。たしかに良い人も本当に沢山いました。
南間:勝負の世界で生きていくのは凄いことだと思います。
錦戸:だけどそれは今も言いましたように環境に恵まれたから頑張れたのです。
先代の高砂親方は本当に父親のような方でした。
母子家庭で育った私に、男親でしか味わえないようなことも感じさせてもらえました。
厳しさも教えて頂いたし、一方でまだ中学を出たばかりの私は「男親というのはこういう存在なんだろうなあ」ということを感じていました。
南間:先代の高砂親方が錦戸親方を大相撲の世界に導いて下さったそうですね。
錦戸:はい。私は中学時代は柔道をやっていまして、特待生として高校に進学する話もありました。
しかし先代の高砂親方が、自分は徳之島から来たんだという話をして下さりました。
その当時の徳之島はまだ日本ではなかったんですね。
その徳之島から両親に楽をさせようと思って日本に入ってきて苦労をして、そして大相撲の世界に入ってという話をして下さったんです。
それで、君も大相撲の世界に入って親孝行をしたらどうだと。大相撲はプロの世界だから自分の頑張りと実力次第で将来をどうにでもできる。だからプロになったらどうだと。
そういう話を本当に親身にして下さったので、私は「相撲で親孝行をしよう」と決心できたのです。
南間:その高砂親方に名づけられた水戸泉という四股名は、どのような由来なのですか。
錦戸:それは水戸の偕楽園に、年中豊富な水を湧き出している泉があるんです。
その泉にあやかって、泉が湧きだす様に番付が上がるようという由来です。
南間:それまで小泉という本名で土俵に上がっていた錦戸親方は、水戸泉という四股名になると一気に序二段から幕下に昇進しました。
錦戸:私は入門以来、怪我や病気を繰り返して親方に心配ばかりをかけていました。
そんな私は高砂親方に名づけられた水戸泉という四股名で幕下に昇進し、後の膝の怪我からも復帰し再入幕を果たし、殊勲賞を獲得するまでになりました。
だからこそ私が三役に定着して、さらにもっともっと番付の上昇に挑む姿を見てほしかった。厳しく指導して欲しかった。
しかしそんな時に高砂親方は、脳梗塞の後遺症で帰らぬ人となってしまいました。
父親を知らずに育った私は親方を恐れながらも慕っていました。
私は悔しくて悔しくて人目もはばからずに泣きました。


「母の叱咤とライバルの存在」

南間:勝負の世界で闘っていて思うように結果が出ない時期は心細くなったりしましたか。
また、そういう時にお母様に励まされたことはあるのですか。
錦戸:母は私の性格を知っていますからね。ハッパをかけるのは上手かったです。
そもそも15才で入門して毎日毎日稽古をして、それでも急に強くなんてなれるわけがない。
そんな時に朝潮さん(現高砂親方)が学生横綱として鳴り物入りで入門してきました。
そうすると当然全く勝てないわけですよ。全く歯が立たない。もう辞めたくなっちゃいますよね。
それで夜中みんなが寝静まった頃に公衆電話に行って「帰りたいよ。大変だよ。もう辞めたいよ」と母に訴えるんです。
でもそうすると「頑張りなさい」と諭されてしまいます。「大相撲の世界で生きていくと自分で決めたんでしょう」という風に。
そう言われると仕方がないからガチャンと電話を切って、でもまた数日経つと夜中に公衆電話から電話して。
入門したばかりの若い頃はその繰り返しでした。
南間:それでもどこかで負けず魂に火がついていったのですよね。
錦戸:そうですね。それには母の叱咤もありますが、やはりライバルの存在も大きいです。
特に印象深いのは同じ高砂一門の小錦です。
小錦がハワイのオアフ島から来日して入門してきて、最初はそれほどの脅威は感じませんでした。
アメフトをやっていただけあって体格は良かったけど、彼は私よりも身長が10センチも低い。
実際に稽古をしても最初は私が勝ってばかり。殆ど問題になりませんでした。
しかしそれから私が膝を怪我して二場所全休してしまい、そこから復帰した頃には小錦と稽古をしても負けることが多くなっていました。
私が故障上がりで膝の状態が全快ではないとはいえ、その頃小錦はまだ入門して六場所目くらいのものです。
そうなってくると私も「負けてたまるか!」という気持ちで増々稽古に励むようになりました。
南間:なるほど。お母様の叱咤が錦戸親方を支え、ライバルの存在に闘志を奮い立たたせていたのですね。


「楽しかった思い出の真相」

錦戸:私が初めて関取に上がり敢闘賞を受賞した頃、母との思い出の真相を知る出来事がありました。
南間:それはどんな出来事ですか?
錦戸:あれはまだ私と弟の昭二が幼かった頃です。朝から晩まで働いて家に帰れば内職。
そんな日々を過ごしていた母が、ある日「富士山に連れて行ってあげる」と言いました。
私と昭二は大喜びです。富士山は日本一の山ですし、そんなところまで遠出をしたことはありません。
家族3人で乗った鈍行の車中でもワクワクしていたことを覚えています。
また、私と昭二はこの時に絵本やミニカーを買ってもらいました。
母との初めての遠出。買ってもらった絵本とミニカー。鈍行の車中で食べた駅弁とジュースも美味しかった。
背伸びをして車窓から初めて見た富士山は、幼心にも打たれるものがありました。
その1日は、私の中では子どもの頃の本当に楽しい記憶でした。
南間:でも違ったんですか。
錦戸:はい。私が敢闘賞を受賞して力士として注目されるようになり、たまたま母が雑誌のインタビューを受けたというのでその記事を読みました。
そうしたらその私の思い出を話していて「富士の樹海で自殺しようと思った」と言っていたんです。
南間:えっ!?
錦戸:私と昭二にとっては良い思い出だったけど、でも母親は違ったんです。
そのインタビューでは「自殺しようと思った」と言っていた。
子ども2人を連れて若い頃お世話になった甲府の知人の所に挨拶に行って、そして富士の樹海に行って死のうとしたというのが真相だった。
それで子ども2人が可哀そうだから絵本やミニカーを買ってあげたというのです。
だけど実際に富士の樹海に連れて行った時、私と昭二が無邪気な笑顔でキャッキャと騒いでいた。
そこでハッと我に返り「ここで子ども2人を道連れに自殺したら、死んだ主人に申し訳ない」と思った。
そして気を取り直して私と昭二を連れて帰ったそうです。
南間:それは驚くような真相ですね。
錦戸:母が苦労していたのは分かっていました。でもそのインタビュー記事を読んだ時は涙が止まらなかったです。
それほど苦労していたのか。それほど苦労しながら私と昭二を育ててくれたのかと、涙が溢れ続けました。
私たちにとっては本当に楽しい記憶で、楽しい1日だったけど母は違ったというのが真相だったのです。
南間:後にお母様とその1日について話されたことはあるのですか。
錦戸:1度だけあります。母は「政人と昭二の元気な笑顔を見たら死ねなかった」と言ったきり口をつぐんでしまいました。
それきり母とこの話題を話すことはありませんでした。
でも母がそれほど苦労をして育ててくれたと知ったことで、母に恥じない相撲を取ろうという気持ちが出てきました。
「敢闘賞で満足なんかしない」という、さらに上を目指す気持ちが増々強くなっていきました。
ただその時に母は入院してしまったんです。
私が敢闘賞を取って、そのインタビュー記事を読んで、母に会って直ぐに倒れてしまったんです。
でもこの時は奇跡的に回復してくれました。


「父と姉のお墓の建立」

錦戸:母はもともと体が丈夫な方ではありませんでした。でもそれから10年元気でいてくれました。
その間に私は平成4年に優勝をして、平成5年に弟の昭二・梅の里が十両になりました。
そして平成6年に父親と姉のお墓を立てました。
南間:それまでのお墓を立て直したのですか?
錦戸:はい。それまでの父親のお墓はとても小さくて、私も昭二も子供の頃は
「お父さんは田舎の相撲大会で活躍したほど身体が大きい人だったというのに、なんでお墓はこんなに小さいのだろう?」と思っていました。
田舎というのはなにかとお墓にうるさいというところもありますし、ちょうどその頃に水戸に霊園ができましたので、それならば立派なお墓を立ててあげようと思ったのです。
実は私には姉がいましたが早産で亡くなっていて、その姉のお墓もやはり小さかったので、父親のお墓と一緒に立派なお墓を立てました。
建立式は平成6年8月31日でした。忘れもしません。真夏の暑い日でした。
平成4年に私が平幕優勝。平成5年に弟・梅の里が十両昇進。そして平成6年8月31日にお墓の建立式を挙げた。
母が亡くなったのはちょうどその1年後の8月31日でした。
南間:お母様が他界されたことで相撲への気持ちに変化はありましたか。
錦戸:実は母が亡くなった時、相撲を辞めようと思いました。もう引退しようと。
もう厳しい勝負の世界で相撲を取っていく気力がないと思ったんです。
でも遺影を見て冷静に考えて、やはりこのまま終わったのでは母は喜ばないだろうと思い至りました。
自分の体力の限界まで、母がご苦労さんと言ってくれるまで全力で頑張ろうと決心して、それから38才まで相撲をやりました。
本当に燃え尽きて、十両から落ちるというところまでやって、それでこれなら母も喜んでくれるかなと思えるところまでやって引退しました。


「兄弟で母へ最高の親孝行」

南間:親方は平成4年の夏場所後、膝の故障と持病の椎間板ヘルニアの悪化で入院されています。
しかし退院後の7月場所で優勝されました。
錦戸:私はこの優勝も本当に母を思い出します。
この7月場所前の入院では見舞いに来た母に「あんたいつも人の優勝パレードの旗手ばかりやってないで、たまには自分が優勝しなさい」と言われたんです。
南間:この平成4年、親方は春場所では千秋楽に栃乃和歌関を破り、小錦関の優勝をアシストして優勝パレードで優勝旗の旗手を務めました。
続く夏場所は曙関が初優勝して、また親方が旗手を務めています。
錦戸:母はそのことを皮肉った上でハッパをかけてきたんです。
それで私はこの時母に「じゃあ次の7月場所は俺が優勝するよ」と言ったんです。
南間:お母様はどういう言い方をすれば、親方の奮起を促せるかをよく分かっているのですね。
錦戸:ただこの時は私自身、まさか本当に自分が優勝できるとは思っていませんでした。
取り敢えず母に対して強がったという感じでしたから。
南間:しかし親方は優勝されました。この時親方は29才10か月、入門してから14年余、87場所が過ぎていました。
度重なる怪我との闘い、我慢に我慢を重ねて掴んだ栄光でした。
また、この優勝では併せて敢闘賞も受賞されました。
優勝パレードでは小錦関が優勝旗の旗手を務められています。
錦戸:小錦とは入門時からずっと共に切磋琢磨してきた間柄ですから、素直にとても嬉しかったです。
南間:お母様にはどのように優勝を報告されたのですか。
錦戸:先ほども言った通り、場所前の入院で見舞いに来た母に「次の場所は俺が優勝する」と強がっていましたが、本当に優勝できた。
優勝パレードが終わり高砂部屋に戻ると、そこには水戸から駆け付けてくれた母がいました。
私は胸に熱いものが込み上げてくるのを感じながら、母に「俺、言った通りちゃんと優勝したよ」と言いました。
南間:お母様は感無量でしたでしょうね。
錦戸:母はこの優勝を本当に喜んでくれました。もちろん私自身も嬉しいんだけど、何よりも母を喜ばせてあげられたのが嬉しかった。
でも今振り返ってもこの優勝は神がかりだったような気がします。
きっと母が願ってくれていたんでしょうね。その願いが優勝に導いてくれたのだと思います。
南間:錦戸親方の優勝の翌年、平成5年に弟の昭二さんが梅の里として待望の十両昇進を果たされました。
梅の里さんの初土俵は昭和55年3月ですので、年数にして13年半であり80場所の土俵を経ての十両昇進になります。
また、梅の里さんは膝や腰の故障で満足に稽古をできないことも多く、18才の時には右膝
靭帯損傷により膝にたまった血が凝固して肺の血管を詰まらせ、肺気腫で意識不明に陥っ
たこともありました。
その時は4場所連続休場となり、番付は序二段百三十四枚目まで下がっています。
その後昭和60年初場所で幕下に上がったものの、平成4年夏場所では膝と腰を痛め大きく
負け越し、三段目に陥落しています。
それでも梅の里さんは不屈の闘志で土俵に上がり続けました。
そして平成5年夏場所で幕下五枚目まで上がり、名古屋場所で十両に昇進されました。
錦戸:本当に長い間よく辛抱したものです。
名古屋場所後に行われた水戸の巡業で、母はともに大銀杏を結った私と昭二を見て感無量の面持ちでした。
きっと昭二の十両昇進は、私の優勝と同じくらい嬉しかったのだと思います。
私たち兄弟にとって母への最高の親孝行でした。


「久しぶりにゆっくり話せた母との時間」

南間:お話をお伺いしていて、お母様と錦戸親方と梅の里さんの、家族としての絆の強さを感じます。
錦戸:でも母が生きている間は「ありがとう」という言葉は言ってなかったのかなと思います。
ですから南間さんが冒頭で仰った方もお母様と色々な話をすれば良いと思いますし、同じ母子家庭で育った者として頑張って欲しいという気持ちになります。
まあ私の場合は時には母を煙たくも思いながらも、亡くなった時は本当に仏壇の前で涙を流しました。
南間:やはり振り返ってみると話したりないことなどもあるものですか。
錦戸:それはありますね。ただ、私の場合は最後に母と子の会話ができたということがありました。
母が亡くなった年の、母が亡くなった8月に、偶然なのですけど水戸への巡業があったんです。
それでこれも偶然なのですけど、普段母が巡業先に来る時は沢山の後援会の方々と一緒に来るのですけど、この時はたまたま親戚のおじさんが車で連れてきてくれました。
そこにまた予定では来るはずだった後援会の皆さんが、渋滞で大幅に遅れてしまうという偶然が重なりました。
そういう訳で稽古が終わった後たまたま母と、母が差し入れてくれたおにぎりや煮物などの手料理を2人で食べる時間ができたんです。
南間:それは貴重な時間ですね。
錦戸:力士でいる間は、そんな風な母との寛ぎの時間を持てることは滅多にないです。
ですから千代の富士さんや小錦が来て「おっ何してんだ」みたいに声をかけて下さるので、母を紹介して「宜しければお袋の手料理いかがですか」と言っても、おにぎりだけ食べて席を外したり、頃合いの良いところで席を立ったりで母と2人だけにしてくれました。
南間:重なった偶然と、周りの力士の皆さんの配慮による母と子の時間だったのですね。
錦戸:1時間半か2時間くらいだったでしょうか。他愛のない会話ではありましたが昔話を含めて母とゆっくり話せました。
いつもは田舎に帰ってもなかなかゆっくり話せる機会もなかったのですが、この時は久しぶりに母との時間を持てました。


「最愛の母の死」

南間:その8月にお母様が他界されてしまうのですか。
錦戸:はい。水戸での巡業は東北から北海道へ回り終わりました。
そして東京の高砂部屋に戻り9月場所に向けて私は稽古に精進していました。
そんなある日、私は後援会の方と夕食のちゃんこをご一緒していました。
この後援会の方は若い頃から何かとお世話になっている方で、昔の話をしているうちに母の話になったんです。
それでふと「おふくろ元気かな」と思って水戸の実家に電話をしました。
そしたらなんか変な感じだったんです。なにを聞いても「ああ。ああ。」と言うばかりで。
これはおかしいと母の異変を感じた私が夕食の席に戻ってそのことを話すと、後援会の方が「俺が運転するから直ぐに行こう」と言って下さりました。
それで直ぐにその方の車に乗って駆けつけました。
南間:東京から水戸の実家にですか。
錦戸:はい。もう気が気でなかったんです。
そうして水戸に車を飛ばすと窓から見える景色が真っ暗になっていきます。
実家は田舎ですから街灯も何もないので。でもその暗い景色の中で実家だけが灯りがついていました。
それで一瞬「あれ!?元気でいるじゃないか」と思ったんですよね。遠くから灯りが見えるわけですから。
でも直ぐに電話の様子がおかしかったことを思い出して、玄関に着くなりドンドン!ドントン!とドアを叩いたけど応答がないので、私は慌てて合鍵で家に入ったんです。
すると母は畳の上に倒れていました。私はもうびっくり仰天して「母ちゃん!大丈夫!?」と声をかけました。
しかし母は意識はあるようなのですが、返事が曖昧でちゃんと答えられません。
「これはいかん」と思った私は、車で30分かかるところにある行きつけの病院に母を連れて行きました。
南間:お母様はご無事だったのですか。
錦戸:医者の診断は脳梗塞でした。それなのでそのまま入院させて、親戚たちも呼びました。
そして東京の病院とか水戸の大きな病院に転院させようかとか、いいや、しばらく様子をみようとか、医者や親戚たちと話し合いました。
結局私は水戸市内の大きな病院への転院を決めたのですが、その矢先に母は亡くなってしまいました。
その日は8月31日、先ほど言った父と姉のお墓を建立した日でした。
もしかすると天国の父が寂しくなって母を呼んだのかもしれません。
南間:ご実家にはお母様が1人で住んでいたのですよね。当時関取である親方は高砂部屋に住まわれていたわけで。
親方にはお母様の仏壇の近くにいたいというお気持ちがあったと思いますがどうされたのですか。
錦戸:水戸の実家は母が亡くなり住む人がいなくなりました。それなので誰もいない家に仏壇を置いておくわけにはいきません。
私は悩んだものの結論を出せず高砂親方に相談しました。
すると高砂親方は、高砂部屋の私の部屋に仏壇を置くことを承諾してくれました。
それは異例のことだったのですが、快諾してくれた高砂親方には深く感謝しています。
南間:お母様との絆は、お母様が他界された後も親方の中に息づいていると感じます。
錦戸:母はよく人から「素晴らしい人だ」と言われますが、私は「そんな素晴らしい人じゃないですよ」と言うんです。
普通の、本当に普通の、ただの母親でしたよと言うんです。
ただ「人よりも一生懸命に頑張っていた」という言い方はできます。
だから私はそういう意味でも、母の顔に泥を塗らないように生きていこうという気持ちがあります。


「引退相撲で母子家庭の親子を200組ご招待」

南間:錦戸親方は引退相撲で母子家庭の親子を200組ご招待したそうですね。
錦戸:はい。実際には反響が大きくて200組以上に増えたのですけど。
その当時の後援会の方々などに協力して頂いて実現することができました。
当日はお母さんたちや子どもたちと一緒に写真を撮ってもらったり、お菓子やジュースを配ったりしました。
南間:それは親方がご自身の子どもの頃を振り返って発案されたのですか。
錦戸:そうです。私の子どもの頃というのは母が働いてましたんで、一緒にでかける時間というのがあまりなかったのです。
でもそんな中でも数少ないおでかけの思い出というのはあって、母と水戸の田舎の小さな動物園に行くのが凄く楽しかったんです。
それは動物園とはいっても、公園の中にある本当に本当に小さなところでした。だけど子どもの頃の私にとっては貴重な母との時間でした。
私は母と子の外出は行く場所ではなく、一緒にでかけるという機会そのものが大切だと思います。
南間:本当にそうですね。
錦戸:そんな自分の思い出を振り返って、もしも私の引退相撲が母子家庭の母親と子どもの時間をつなげる場になればと考えてご招待したのです。
南間:きっとお母様方にとっても子どもたちにとっても素敵な思い出になったでしょうね。
親方がお母様と動物園に行った思い出のように、招待された子どもたちが大人になった今も、素敵な思い出になっているのではないでしょうか。


「子どもたちの夢にエールを」

南間:母子家庭の子どもたちに限らずですが、子どもたちにメッセージを頂けますか。
錦戸:私は子どもは無限だと思います。無限の可能性があるのが子どもです。
でも年を取ってくるとなんだかんだ現実が分かってきますよね。そうして夢をみなくなってしまう。
親は既に現実を分かっているものだから、ともすると子どもの夢に反対してしまいます。
でもそれはあまり良くないと思うんです。
やっぱり子どもは夢に挑戦することで可能性が拓けていくと思います。夢をみることは大切です。
南間:親方ご自身も大相撲という厳しい世界で夢に挑戦してきました。
錦戸:私にも大相撲の世界での夢がありました。大関になりたかった。横綱になりたかった。
優勝も1度だけでなくもっと沢山したかった。夢は大きかったです。
南間:親方は現役時代に沢山の怪我に泣かされました。
もしも怪我がなければ大関、横綱まで狙えた逸材だったと言われています。
錦戸:私の師匠の高砂親方は、怪我は弱いからするんだと言っていました。それは本当で、私はだから絶対に怪我では辞めないと決めていましたし、言い訳にもしないと決めていました。
逆に私は、大関に上がれませんでした。横綱になれませんでした。優勝も1度しかできませんでしたと言うんです。
南間:でも親方は全力で夢に挑戦されました。
錦戸:大相撲の世界について言えば、みんな夢を持って入門するけれど十両になれる者は10人に1人もいません。厳しい世界です。
しかしただ単に結果が出ないから、ただ単に面白くないから諦めるというのは違います。
人間は1人で生きているのではありません。両親や応援してくれる人たちがいます。
ですからその人たちのためにも全力で頑張る。精一杯挑戦する。
そうして夢に立ち向かってもしも砕け散ってしまったとしても、それで終わりではありません。
たとえ挑戦した夢が思い通りにいかなくても、また違う夢にチャレンジしていく。
たとえ砕け散ってしまった夢でも、全力で挑戦した経験は必ず次のチャレンジに活きていきます。
そういった意味で子どもたちには夢をもってほしい。そして大人はそんな子どもたちを応援してほしいと思います。
南間:たしかに子どもたちが夢を描かなくなってしまったら寂しいですね。
錦戸:いつの時代も未来を創っていくのは子どもたちです。
大人には子どもたちの夢にエールを送る責任があるのです。


「結婚、闘病、諦めない気持ち」

南間:親方はずっと独身で過ごされていましたがこの度ご結婚されました。
その後お体を悪くされましたが、独身の頃にお体を悪くされたのと、今奥様がいらしてお体を悪くされたのは違いますか。
錦戸:やはり違います。食事療法など体のケアも考えてくれますしね。
それなので一生懸命頑張らなければならないという気持ちになりました。
皆さまにご心配頂いていますが私は元気です。
南間:今は高齢まで独身でいられる方がとても多いです。そういう方々の中にはご病気になったりしている方もいます。
最後にそういう方々に対する応援やメッセージをお願いします。
錦戸:難しい質問ですねえ。だけど病気や怪我に限らずでしょうけど、人と話すことは大切だと思います。
自分だけで抱え込まずに人と話す。自分1人で考えていても仕方がないですから。
あとは気持ちです。病気や怪我を治していくんだという気持ち。
治るか治らないかというのは神様しか分からない話です。
でも奇跡が起きる可能性はあります。諦めてしまっては絶対に駄目です。
南間:本当にその通りだと思います。我々株式会社ヴィムも婚活支援事業などでご高齢の皆さまの幸せに貢献できるよう頑張ります。
今日はお時間を頂戴しありがとうございました。

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